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かき氷の旗が同じデザインなのはなぜ?波と鳥が描かれている理由もわかった!

チコちゃんに叱られる

かき氷の旗に、「波」と「鳥」がデザインされている。

その理由は…
・函館氷を蒸気船を使って海を越え運んだことから波をイメージしている
・氷という字の周りを飛んでいる鳥は「波千鳥」で、その清涼感を取り入れた
…と言われているそうだ。

なるほど…

かき氷の旗が同じデザインなのはなぜ?

「この中(岡村隆史、ゲストのフワちゃんとヒロミ)で一番、美味しいものが大好きなグルメな大人ってだあれ?」と聞かれ「みんな好きだ(と思う)が…僕で」と、岡村が立候補。

チコちゃんに「夏に食べる冷たいものは何?」と聞かれた岡村、「かき氷」と答える。
かき氷屋さんと言えば…と愛ちゃんが持ってきたのはかき氷屋さんでよく見かける氷と書かれた旗。

チコちゃんに「かき氷屋さんと言えばどこにも旗があるよね。なんで?…なんでかき氷の旗は同じデザインなの?」と聞かれた岡村は「考えた人が凄かった…あれを削るという事を見つけたすごい人がいるんですよ。その人が『もうこれはあかん、俺が作ったもんや!』と、その旗を常に振り回して持っていたから、そのかき氷屋さんには、そのマークの旗のようなものが必ず立っていたんですね」と答えた。

だが「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われてしまう。

その後ヒロミも聞かれる。「…たぶん氷を扱うのに何か〇〇〇…だったんじゃないですか?」と答えると、つまらなそうなチコちゃん顔がドアップになり「あなた…つまんない人だわね~。もう連荘(れんちゃん)じゃない」というと、ヒロミは「レギュラーでお願いします。…NHKの通行証下さい」と言う。

(ヒロミは一問目も正解した)今度も正解してしまったようだ。

〇チコちゃんの答え
⇒かき氷の旗が同じデザインなのは営業許可証だったから

氷旗は昔、氷の販売を許された業者の許可証だった

詳しく教えてくれるのは、伝統あるかき氷を広め、更なる発展を目指す、日本かき氷協会代表の小池隆介さん。

「この旗は、『氷旗(ひょうき)』というんですけど、昔販売を許された業者が許可証として店先に掲げることがルールだった。今でも全国でこの旗が掲げられているのは当時の名残りなんです」という。

実際に全国のかき氷屋さんを調べてみると、多少の違いはあるものの北海道から沖縄までかき氷を販売する店には氷旗が掲げられている。

しかし、この旗、かき氷ではなく氷としか書かれていない
小池さんは「この旗は厳密にいうとかき氷ではなく、氷そのものの販売を許す許可証なんです。実は、許可証が交付された当時氷は大変貴重なもので扱うのに許可が必要だった」という。

かき氷屋さんに氷旗が掲げられるようになるには、冷凍庫など無い時代に氷を求めた人間達の壮絶な物語があった…らしい。

なぜかき氷屋さんに氷旗が掲げられるようになったのか

氷について、日本雪氷学会北陸大学元教授の竹井巌先生に聞いた。

先生によれば、氷は古くから日本でも利用されていて、平安時代に清少納言が書いた「枕草子」にかき氷について書かれた文章も残っている、という。

そこには『削った氷に甘味料をかけ新しい金属製のわんにいれたものはとても上品である』と書かれている。

氷は昔、贅沢品だった

清少納言と言えば当時の上流階級。
そんな彼女でさえもありがたがって食べていることからいかに氷が貴重だったかという事がうかがえる。

江戸時代に入ると徳川家康は夏場に雪や氷をわざわざ富士山から運ばせていた。
さらに加賀藩前田家(現在の石川県と富山県)は将軍家に氷を献上するため雪を貯蔵し江戸まで運んでいたという。

貴重な氷は「お氷様」と呼ばれ江戸の庶民には手を触れることもできなかった。
暑い季節に冷気を感じることができる氷は、限られた人だけの贅沢品だったという。

氷の使い方に変化が訪れた

氷の使い方に変化が訪れたのは江戸時代末期。

当時横浜に住んでいた外国人たちが氷を求め始めた。
その目的は食料品の保存や外国人医師が解熱ややけど治療に使うためだった、と言われている。

しかし当時の日本には庶民が気軽に使える氷など無い。
そこで氷をアメリカから輸入した。

6か月かけて氷の約55%を運ぶ

実はアメリカのボストンではウェナム湖の氷を切り出して、世界中に輸出するビジネスが既にあった。
船での輸送中に氷が溶けないように、まわりの木材やおがくずを隙間に敷き詰めていた。

この保冷技術のおかげで積み込んだ氷の約55%を運ぶことができた。

ボストンから日本までの
・航路はおよそ1万5,000km
・輸送期間はなんと6ヵ月。

ビールケース程の氷が3~5両。現在の30万円以上下と言われている。
氷は非常に高価なもの、庶民がかき氷にするなどとてもできなかった。

手軽に氷が使えるようになったのは明治時代

かき氷ほど手軽に氷が使えるようになったのは、明治時代に入ってから。
そのきっかけになったのが中川嘉兵衛(1817~1897)。

外国人が高価な輸入氷を使っていると知った中川は安い氷を普及させるプロジェクトを開始。

山梨県の富士山麓から氷を取ることをスタート。
よりよい場所を求め日本列島を北上。
しかしいずれも成功には至らなかった。

一番の問題は輸送手段。
陸路や航路を一から整備するのは時間も費用もかかりすぎて採算が取れなかった。

中川が目を付けたのは北海道の函館。
当時の函館港には大型蒸気船の定期便があり、それを使えば輸送費用を抑えて採算がとれた。

最後にたどり着いたのが函館港の防衛を目的として江戸幕府によって作られた五城郭。

当時五稜郭の外堀は清流亀田川から水を引き入れていたため、気泡など不純物の少ない透明な氷ができ、さらに北海道の気候のおかげで十分な厚みのある氷が大量にとれた。

明治4年には670tの氷を切り出し、「函館氷」として商品化。
安い函館氷は日本中に行き渡り、庶民もかき氷を食べられるようになった。

不衛生な氷の製造販売を取り締まる

ところが中川の成功を見て氷の販売は儲かるとわかると全国的に真似するものが続出し、不衛生な氷を売る不届き物も出てくる。

当時政府のトップだった伊藤博文は新聞で不衛生な氷の製造販売を取り締まると発表。
政府は衛生検査を導入し検査に合格した氷業者に配られたのが氷と書かれた旗、許可証だった。

当時の旗をよく見ると氷の下には産地(企業名)が書かれ、上には官許の文字がある。
これこそが政府が営業を許可した証だ。

そして日本中のかき氷屋さんは、仕入れ先の許可証を掲げ、うちの氷は安全だという目印にした。
その名残りが今も全国のかき氷屋さんに残っている。

結論:かき氷の旗が同じデザインなのは「営業許可証だったから」

愛ちゃん情報

この「氷旗」のデザイン、波がデザインされているのは函館氷が蒸気船を使って海を越えて運んだことから波をイメージした、とも言われている。

氷という字の周りを飛んでいる鳥は、日本の伝統模様の「波千鳥」というもの。その清涼感を取り入れるためにデザインしたと言われている。

※8月8日「チコちゃんに叱られる!」参照・抜粋

まとめ

昔は、田舎の近所にもかき氷を出す店があったし旗もあった。

いとこのお姉さんに連れられて初めてかき氷を食べた。
その時「氷を少し取って、手をキレイにしてから、かき氷を食べるんだよ(これがかき氷を食べる時のマナー)」と教えられた記憶がある。

今は手拭きやおしぼりもあるから、そういう事はしないだろう、と思うが…実際これって、みんなやってたのかな?

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